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第12回 「青年期」の難しさ [青年期]

 そろそろ「青年期」についてまとめておきましょう。
 人間とは社会的な動物であると説いたのは、古代ギリシアの哲学者で生物学者であるアリストテレスでした。アリストテレスについてはこのブログでものちにご紹介します。
 人間は他者との関わり抜きには存在できない動物だ、と解釈しておきましょう。どういう形でかかわるかは人それぞれですが、いわゆる「キャラ立て」をして、友だちに期待されるような振る舞いを意識的にして自分の居場所を確保するというような意味ではありません。どうも最近の深夜アニメを見ていると、人との関わり方がそういうルールのもとに行われているというような描写がよくあり、嫌な気分になります。確かにそれで生きていくのはしんどいことだなあと思います。
 アリストテレスが言う関わり方はそうではありません。人との関わりの基本は、正義と友愛だと説きます。これはまたいずれくわしく説明しますが、簡単に言うと、対等で公平な立場で交友するということです。愛想笑いをしてみたり、相手に気に入られるような言動をしてみたりするのではなく、自分も相手も尊重するという関わり方です。
 自尊感情という言葉があります。青年期には劣等感……コンプレックスを抱きがちになることがよくみられます。石川啄木も「友がみな、我より偉く見ゆる日よ」と詠んでいますが、これが行き過ぎると卑屈になり、自分の意志で行動できなくなってしまいます。過信してはいけませんが、自信は持っておくべきなのです。自分を大切にしないことには、生きがいも生まれてこないでしょう。自分を大切にすると同時に、他人も大切にする。そこから「友愛」という関係ができてくる、とだけここでは書いておきます。
 したがって、現代においては青年期の持つ意味は大きいと言えます。反抗期を経て自尊心と劣等感との葛藤に悩みながら、自分らしさを確立していき、価値観を確かなものにして人生観を作り上げ、対等な人間関係の作り方を身に着けて、そして大人になっていくのです。
 もちろん、そううまくは行きませんし、誰もが同じようなモデルのもとに成長するわけではありません。しかし、大なり小なり上に書いたような経験をするのが青年期の特徴なのではないかというのが、この倫理という科目でみなさんに示すことのできるモデルなのです。
 だから、人によっては反抗期を経ずに社会に出てしまう人もいるだろうし、人から求められる自分を演じることで自分というものを辛うじて保つという人もいるでしょう。それはそれでその人の生き方なのだから、僕は否定しません。ただ、やはり一定の経験を経て大人にならないと、この社会で生きていくのは本当にしんどいことですよ、ということは言えるのではないかと思います。
 うーむ、「青年期」について語るのはやはり難しいと、書き終えた今、感じています。

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第11回 人生観 [青年期]

 自分にとって大切なものは何かとという「価値観」が作られると、それをもとに「人生観」が形作られていきます。これができてないと、地に足のつかない出たとこ勝負の流され人生が始まる、と書くと大げさでしょうか。
 職場にやってくる生命保険の営業の方が、「あなたのライフサイクル」というものを勝手に作って持ってきたことがあります。まだ講師という立場で、正式な教諭になっていない時でしたから「よけいなお世話」と腹を立てたりしたものです。なぜならば、その表には私の価値観が何も反映されていなかったからです。いくつで結婚して、いくつで子どもができて、その子どもが一人前になり、定年退職した後は……という「ライフサイクル」をもとに生命保険に入るとどんなに得かということを示すためのものですから仕方ありませんが。
 自分の生き方は自分で決める部分と人によって決められる部分と、いろいろな要素がまじりあって決まっていきます。思わぬアクシデントもあれば、思いもよらない幸運に見舞われることもあるでしょう。
 仕事をするにしてもそれ以外のものを大切にするにしても、そこに「生きがい」がないとおもしろくありません。実際、僕たち教師は赴任する学校によって生き方が大きく変わります。「夜回り先生」で知られる水谷修さんは定時制高校に転勤したことが転機になって、夜の街をまわって若者たちと向き合うという生き方がひらけてきたわけです。僕は定時制高校や中学校の講師を経て、正式に採用されたときには知的障碍のある生徒のための特別支援学校(当時は養護学校と呼ばれていました)に着任しました。そのため、次に転勤した高校でも、現在勤務している高校でも、障碍のある生徒と関わる仕事がよくまわってきたものです。僕は大学時代に障碍児教育について学んできたわけではありませんから、障碍児と関わるという仕事は自ら選び取ったものではありません。教師になるという決断は自分でしたけれども、障碍児と向き合うということは教育委員会の人事担当者に決められたようなものです。
 しかし、嫌だ嫌だと思いながらも障碍児教育について何年もの経験が蓄積されていくと、やりがいも出てきますし、転勤した後でもいろいろな経験をすることができました。何よりも、「教育とは何か」という根っこのところを障碍児教育でつくりあげ、高校に転勤してからも、その本質は変わらないことを確信したことは大きかったと言えます。
 教師としての価値観を確立したからこそ、なんだかんだで30年間もこの仕事を続けていくことができたのではないかと思っています。「価値観」をもとに「人生観」が作られるというのは、そういうことだと僕は考えています。若いみなさんにはまだまだ分からないことかもしれませんが、頭の片隅に置いておいてほしいと思います。

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第10回 価値観 [青年期]

 前回はコミュニケーションの大切さについて書きましたが、コミュケーションをとるのが大変難しい相手もいます。同じ言語を話しているはずなのに、お互いのことばが理解できないというケースは、特に社会に出てからいろいろな場面で体験することになると思います。離婚の理由に「性格の不一致」というものがありますが、どんな人間だって性格が一致するはずがないと、僕は子どものころからおかしな言葉だなあと感じていました。
 僕は、これを「価値観の不一致」という言い方に変えればわかりやすいのではないかと思っています。価値観が違い過ぎると、会話も全くかみ合わなくなるのだと思うのです。僕にとって教師の仕事は大切なものではあるけれども、一番ではありません。それよりも阪神タイガースの応援、大相撲の観戦、SFやミステリなどの小説を読むこと、漫画やアニメ、クラシック音楽を聴くこと、落語や漫才を楽しむこと……それらは、仕事第一の人から見たら「趣味」という言葉で片付けられてしまうのでしょうが、僕にとっては血であり肉であり人生を形作るうえでなくてはならないものです。
 何より大切なのは、妻、そしてものを書くことです。僕は25年近くインターネットにウェブ日記(現在はブログ)を毎日のようにアップし続けています。パソコンとネットがつながりにくくなったときは、スマートフォンで更新しています。体調不良で仕事を休んでも、ブログの更新だけは忘れません。自分が何かしらものを書き、それを誰かに読んでもらうことは、僕にとって呼吸することと同じくらいの価値のあることなのです。そして、妻は僕のブログを毎日読んでくれています。誤字があったり、わかりにくい書き方だったりしたら、それを伝えてくれます。
 妻と結婚してから25年たちました。子どもはいませんが、好きなものがかなり重なっていて、僕が読んだ本で面白そうだと妻が感じたものは、必ず貸してほしいと言ってきます。僕が「積ん読」している本の背表紙を見て、どれもおもしろそうだといいます。好きな音楽や歌手も重なっていますし、古典芸能への関心も同様です。
 つまり、僕と妻との価値観は多くが一致しているということです。僕は妻とよく話をします。ほかの方に聞くと、家で夫婦の間にほとんど会話がないということがけっこう多く、僕は驚いてしまいますが、僕は妻と好きなもののことや仕事の悩みなどを話していると言うと、逆に驚かれたりすることもあるのです。
 自分ならではの価値観を作るということは、生きていくうえでとても大切なことだと思っています。そして、自分にとって何が大切かは、青年期までにだいたい決まると言っても言い過ぎではありません。青年期は価値観を育む時期でもあるのです。それは自分の生き方を左右するものになることでもあるのです。

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第9回 コミュニケーション [青年期]

 2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の流行は、それまで常識であったことを覆していきました。特に問題になったのは、人との距離です。「ソーシャル・ディスタンス」と呼ばれる一定の距離を置いて接しないと、「密」の状態になって飛沫感染が起こりやすいとされ、西洋式の挨拶である握手やハグはもちろん、手と手を軽くタッチさせることすら批判の対象になってしまいました。
 多人数での会食が制限され、狭い部屋にに多くの人数で集まることもできなくなりました。直接会って話をするのではなく、カメラとマイクを使って離れたところで会議をしたりという働き方が普通になった職場もあります。
 制限が緩むと、家にじっとしていられない人たちはすぐに外出するようになりました。彼らは常に人と交わっていないと不安になるし、活動が制限されるといらいらしてしまうのです。
 逆に、家にじっとしていて人と会わないでいても平気な人もいます。不要不急の外出は控えましょうと言われる前からあまり外出しない人たちです。僕もあまりアクティブな方ではありませんから、一人でいてもあまり孤独だと感じたりはしません。まったく誰とも接触がないと寂しくはなりますが。だから町へ出て人と会おうとかいうようにはなりません。
 僕の場合、何年間かひとり部屋で仕事をしていたことがあります。むろん授業もあるし、用事があれば職員室に行って人と話をしたりもしますが、ほとんど部屋にこもりきりの場合もありました。CDをかけて常に大好きなクラシックを聴きながら仕事をしていれば、それでもよかったのです。
 ところが、そのあと3人部屋で仕事をすることになりました。あとの二人は女性で、しかもぼくとは20歳以上も年が離れていました。二人が楽しそうに話をしていても、その中に入っていけません。僕の得意な分野の話題をしていたので話に割りこんだことがありますが、二人とも困惑してしまっているようでした。ついにはほとんどその二人とは仕事以外で話をすることがなくなりました。
 僕はその時、ひとり部屋では感じたことのない深い孤独感を味わいました。つまり、いい形でのコミュニケーションをとらないと、人は孤独になってしまうということです。僕は人とのコミュニケーションをとるのがあまり得意ではないので、よけいにそれを感じます。
 コミュニケーションのとり方が攻撃的になってくると、暴力行為やいじめにつながったりもします。ほんとにコミュニケーションというのは難しい。
 孤独感を味わい、そこから脱出するためにコミュニケーション能力を高めていくのも、青年期ならではの成長の仕方といえるかもしれませんね。

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第8回 フラストレーション [青年期]

 前回はマズローの欲求について書きました。生理的欲求を満たしたら、次の段階へと進み、最後に自己実現の欲求を満たしていくという考え方だと思われますが、私はいささか疑問を持ちながらこの図式を見ています。というのも、欲求はいつでも満たされるとは限らないからです。生理的欲求が満たされなければ、安全の欲求を求めることはありません。安全の保証されないところではどこかに所属したい、愛されたいという欲求も生じません。自己実現なんてかなりハイレベルな欲求であるというということです。
 戦乱に追われて明日の命もわからない難民たちにとって、将来の夢など持ちようもありません。そういう意味では青年期のモラトリアムのといっていられるのはたいそう幸せな状態であると、皮肉でもなんでもなくそう思います。
 青年期には、様々な欲求が生じます。好きな作家の小説をすべて読んでみたいしできれば手元にずっと置いておきたい。あの人と恋人同士になり、お互いに愛し合う関係になりたい。将来は芸人になって満場の客を笑わせたい。誰とでも仲良くしていたいし敵を作りたくないし嫌われたくない。
 しかし、それらの欲求が必ず満たされるという保証はないのです。自分の欲求が満たされないと、いらいらしたりがっくりきたりむかむかしたりするでしょう。そういう状態のことを欲求不満、フラストレーションといいます。欲求不満をただただ放置しておくと、他人に対して攻撃的になったり、落ちこんで何に対しても無気力になったりと、良くない方向に進んでしまいがちです。
 そこで、多くの人はいろいろな方法でその欲求不満を解消していこうとします。精神分析の祖であるフロイトは、「合理的解決」「攻撃」「失敗反応」「防衛機制」といった形で解消すると考えました。一番いいのは合理的に解決するやり方で、別な目標を立てたり気持ちを切り替えて前向きに生きたりとなるわけですが、たいていの人は自分を守るために様々な手を使います。あこがれの人に手が届かなかったので、かわりにその人と仲の良い人とつきあうことで自分が傷つかないようにしてみたり、お笑い芸人なんてたいしたことはないと逆におとしめてみたり、手に入らなかった本はどうせたいした作品ではないときめつけてみたり。それがうまくいく場合もあるし、かえってもっと自分をいらだたせることもあるでしょう。大人になると、なぜ自分の欲求が満たされないのか原因を探ってみたり、欲求を満たすためにいろいろな方法を試したりすることができます。
 僕はもう老年期になろうとしていますから、最初から高い欲求を持とうという気にはなりませんが、若いころはかなり無謀な夢を見たものです。でも、それは青年期だけに許された特権かもしれないなと思ったりもしています。

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第7回 自己実現 [青年期]

 エリクソンは人間が成長する段階を乳児期、幼児期、児童期、学童期、青年期、成人期、壮年期、老年期と分けて、青年期を大人になる準備期間と位置づけました。この期間に「アイデンティティの確立」をするということは、つまり大人になるという意味ととらえられます。ただ、現代の日本では少子高齢化が進み、「モラトリアム」の期間が長くなっていると考えられています。
 例えば結婚して子どもを作る年齢も、少しずつ上がってきており、かつては20代で結婚、出産をするのがあたりまえで、30代で結婚したり、初めての出産をしたりするとかなり遅く感じられたものでした。しかし、現代日本では30歳を過ぎて結婚することも、あるいは子どもをつくることも、それほど遅いとはとらえられていません。
 それどころか30代になってから「自分探しの旅」をする人もいるほどです。そういう意味ではエリクソンの考えた成長の段階も時代によって見方を変えていかなくてはならないでしょう。
 倫理の学習で「青年期」を考えるとき、我々はかなり柔軟にこれをとらえなければならない時代になったのではないかと、僕は考えています。
 さて、アイデンティティを確立……つまり自分自身がどのようなものであるかを見定めたとして、実は人生というものはそこがスタート地点であると考えなければならないでしょう。大人になる準備ができたとしても、大人にはまだなっていないのですから。
 そこでキーワードになるのは「自己実現」です。将来、自分はどのようなものになりたいのか、それを実現するにはどのような行動をとればいいのか、ということです。
 マズローという人は人間の持つ欲求を5つの段階に分け、それぞれに生理的欲求、安全の欲求、所属・愛情の欲求、承認・自尊心の欲求、自己実現の欲求と名付けました。
 生理的欲求が満たされると、自分の身の安全を守りたいと思うようになり、さらにはどこかに所属し愛情を注がれたいと思うようになる。そして他人に認められたりして自分の価値を高めたいと思うようになり、そのためにはそういう欲求を満たすために自分のなりたいものになろうとするということです。
 大金持ちになりたいと思えば、どれくらいの資産を形成したいか具体的な目標を定め、それを達成するにはどのような方法をとればよいか考え、そのための技能や知識を身に着け、そして実行に移す。むろんそれは簡単なことではないし、誰もが自己実現を達成できるとは限りません。しかし、自己実現の欲求をみた人たちはみな自分の人生に価値を見出し、挫折した人は価値を見出せないということになります。ただ、人間というものは欲深い生物ですから、いつまでたっても達成感が得られないということも多いのではないでしょうか。

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第6回 モラトリアムとアイデンティティ [青年期]

 今回は「モラトリアム」と「アイデンティティ」について書きます。どちらも心理学者エリクソンの考えた「青年期」の特徴です。
 まずは「モラトリアム」から。これは「猶予」という意味です。子どもから大人になるまで、待ってくれる期間のことをさします。誰が待ってくれるかというと、社会そのものと考えていいのじゃないでしょうか。
 ただ、この期間、決まった長さでないことが問題です。だいたいは社会に出るまで、つまり学校を卒業して就職するまでを「モラトリアム」と考えるべきなのでしょうが、バブル崩壊後の日本では、ひきこもり、ニート、フリーターなどもその中に含まれてしまうようです。最近問題になっている「中高年引きこもり」となると、もう「猶予」ではなくそれがその人の生き方そのものになってしまっていますね。これはエリクソンも予想してなかったんじゃないでしょうか。ただ、エリクソンはこの「モラトリアム」を否定的にはとらえてません。あくまでも社会に出るための準備期間という位置づけにしています。ところが日本では1970年代おわりに精神科医の小此木啓吾がいつまでも大人になろうとしない人を「モラトリアム人間」と名付けたため、「モラトリアム」という言葉はマイナスな意味合いのものになってしまっています。小此木は「モラトリアム人間」を「アイデンティティを確立しようとしない人間」と定義しています。
 さあ、「アイデンティティ」です。一応日本語に訳すと「自我同一性」となりますが、どういう意味の言葉だかさっぱりわかりませんね。歌手のアグネス・チャンさんは「心のよりどころ」と訳しましたが、これもしっくりこない。なかなかぴんとくる訳語がないんです。僕は、これはたぶん日本人という民族にはアイデンティティなるものが希薄だからじゃないのかとにらんでいます。
 この言葉はいろいろな概念を含んでいます。「心のよりどころ」もそうですし、「個性」という意味もあると思います。僕なりに考えてみましたが、「その人をその人たらしめている性質」みたいに一言では言い切れないものなのです。
 幼いころのあなたと、現在のあなたは同じ人間でしょうか。身長、体重、経験、知識など、幼いあなたよりも現在のあなたの方がいろいろと増えていますね。幼いあなたの写真と現在のあなたの写真を並べてみたら、その差ははっきりわかります。誰もそれが同一人物だとは思いません。ただ、幼いあなたの顔から、現在のあなたの面影を見ることはできます。幼いあなたが成長して現在のあなたになったのですから、何か変わらないものがあるはずです。性格や性質などがそれにあたるかもしれないし、趣味や嗜好かもしれない。だから「アイデンティティ」には「自分らしさ」という意味が強く含まれているといえるでしょう。

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第5回 第二反抗期 [青年期]

 前回は「第二次性徴」や「第二反抗期」という言葉を説明なしに使ったけれど、あまりにも無造作すぎたので、ちょっと説明を加えておきます。
 まず「第一次性徴」は、生まれ落ちた時に生物学的にオスかメスかわかるようになっている、ということ。はっきりと言うと、おちんちんがついていたら男の子で、ついてなければ女の子、というのがそれです。それ以外にはほとんど違いはありません。これは生物学的な雌雄であって、この時に脳内の性差が逆になっていたりする人のことをトランスジェンダーといいます。そして、大人になって第二次性徴ができてくると、彼らは戸惑い悩み苦しむことが多いのです。
 次に「第一反抗期」ですが、産まれたばかりの乳児は母親と一体化しているそうですが、2歳から3歳くらいになると自我が芽生えてなんでもかんでもいったんは「嫌」と反抗しだします。いわゆる「だだをこねる」というのがそれです。「第二反抗期」も自我が強くなっていく過程の現象ですから、時期が違うだけで理屈としてはよく似たものかもしれません。
 ただ、第二反抗期は行き過ぎると犯罪行為につながったり、反抗するあまり引きこもってしまったりする場合もあるので、周囲の大人としては対応が難しい。ここをうまく切り抜けると、親の言動にも理解を示すようになり、「お前も大人になったなあ」などと言われるようになるのですね。そのためには社会に出て大人の世界でもまれたり、自分自身が人の親になったりというきっかけが必要になると、僕は思います。以前ここで書いた、大人になってもよい子でいようとする人なんかは、第二反抗期を経ていないこともあるかと思います。
 僕が担任をもった高校の教え子で、高1までは「よい子」だったのに、高2になってアルバイトを始めると、夜更かしをしたり遅くまで恋人といっしょにいたりするようになって、突然親の言うことも担任である僕の言うことも耳に入らなくなりました。母親と話をしているうちに、その生徒は中学時代に第二反抗期を経ていないことがわかりました。
 第二反抗期が遅く来ると、その行動に責任がともなうようになるので、反社会的なことにつながる場合もあります。できれば第二反抗期は中学生くらいですませておいたほうが害が少ないのではないかなどというのが、僕の教師生活から得た教訓です。
 第二反抗期を過ぎると、子どもは大人といくぶん対等な関係を持とうとするようになります。もっとも、いつまでも子どもには子どものままでいてほしい親もいたりして、対等の関係であることを認めたくないという心理が働いたりもするようです。僕と父の間には、かなり長い間そういう葛藤があり、父は死の直前まで僕のことを独立した大人と認められなかったのではないかと疑っています。
 なかなか教科書に書いてある通りの人間的成長なんてないと、僕は思っています。

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